タイ・カンボジアの陶磁器・民族衣装など歴史的遺産の宝庫・ヨコタ博物館

《 第二号 》
山岳民族、ヤオ族

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山岳民族、ヤオ族

昭和五〇年、タイ北端の街、チェンセンへ出かけたときの事である。タイの少数山岳民族ヤオ族の大きな集落があるということで、興味をひかれ運転手に案内を依頼した。チェンセンの町の手前を右へ折れたところになだらかな山があり、山の裏側にヤオ族一〇〇世帯余りの長屋が並び、七〇〇人から八〇〇人ほどが住んでいるかなり大きな集落が見えた。

ところが、私を案内してきた運転手は、ヤオ族部落少し前でストップしてしまい、そこから先は行きたくないと言い出したのである。

タイ人でも行かない場所と思うと、正直怖くなった。しかし、せっかくここまで来たのだからと勇気をふるい、集落に足を踏み入れていった。ところが、大人も子供も私の顔を見ると一斉に逃げて行き、人っ子一人いないように静かになってしまった。私は、遠くからヤオ族に分からないように写真だけをとり、早々に引き返してきたのだった。これがヤオ族第一回目の訪問であった。

帰国して、写真を現像してみると、景色の遠くのほうに、ヤオ族が五人写っていた。人物だけを大きく引き伸ばし、少々粒子が荒くなったが、人数分だけ持ち、再びタイのヤオ族集落を訪れたのである。

写真を持っていったことで、いっぺんに親しくなり、住居や集落の中まで見せてくれた。長屋形式になっている住居の壁と屋根はやしの葉、柱と床は竹で作ってあった。「写真を撮ってくれ」と頼みに来る。おばあさんや子供たちもいて、快く応じた。

ヤオ族は焼畑農業で生計を立て、仕事の合間に女性は、服に刺繍などをして楽しんでいるようだった。焼畑は主に、とうもろこしが作ってあり、芥子畑も少々あった。

これは、阿片の材料として売り、彼らにとって現金収入の道だったかもしれない。これがヤオ族部落訪問の二回目だったのである。なぜ、最初の時、運転手が嫌がったのかと考えてみると、少数民族は、一般のタイ人達に疎外されているという意識が強く、そのことを知っている運転手は、部族の塊の中に一人で入っていくのが、やはりこわかったのではと推察したのである。

第三回目の訪問も写してあげた写真を持って出かけた。この頃には、私の訪れを非常に喜んでくれるようになった。今でも記憶に残っているエピソードがある。集落の最長老らしきおばあさんが﹁ことと、お前の所と、どちらがいい﹂と尋ねたのである。お世辞で「こちらのほうがいい」と答えたところ、「ここに住め」と言い始めたのである。息子に家を作らせてやるとまで言うので、慌てた私は、ご飯も何も作れないと答えると「何もしないでいい、食べさせてやる」と言われた。その後、どのような会話になったのかは、覚えはないが、ヤオ族のおばあさんに私はだいぶ気に入られたようである。

四回目に訪問したときは、ヤオ族は移動した後で、もう集落がなく、どこに行ったのか、全くわからなかった。ヤオ族の集落を見て、最も印象に残ったのは、外にあった、かまどである。赤土の斜面を利用して、たき口、鍋釜、煙道、と三つの穴を開けておくだけの簡単な作りである。合理的で原始時代のかまど彷彿とさせた。

ヤオ族の衣装と、長老のおばあさんの写真は第一展示場に展示中です。また、集落やかまどの写真も博物館に保管してあるので、興味のある方は、お申し出ください。